屋根瓦の歴史について解説します!(江戸時代~昭和の時代)
前回、日本瓦の歴史(飛鳥時代から江戸時代)について解説しました。
瓦は朝鮮半島から伝えられ、仏教の普及とともに日本瓦として広がり、軽量&安価な桟瓦の登場で一気に普及をしたという内容でした。
今回はその後の歴史(江戸後期〜昭和)をご紹介します。
瓦の歴史
江戸時代は初期から後期にかけて火事が多いうえに大規模でした。
特に「江戸の三大大火」(明暦の大火(1657年)、明和の大火(1772年)、文化の大火(1806年))では、多くの住居が焼失し多くの死者が出ました。
このような大規模火災に発展した原因は、江戸の町が日本一の過密都市だった為です。
現在でも、東京下町エリアには住居が密集している場所がありますね。
その為、どこかで火災が発生すれば、火は止まることなく延焼してきたのです。
そこで当時の政府は、屋根を燃えやすい「草」「藁」葦きから、「瓦」葺きにする事を奨励するようにしました。
まずは武家屋敷から始まり、町人、特に商家へと広めていったようです。
ちなみにですが、瓦屋根へ改築するためのお金の貸付(なんと10年返済!)もあったとの事です。
明治になると、洋風建築が日本に入って来ました。
その後、建築家の手で煉瓦や石造りの「西洋建築」が建てられて行きました。
この時期の日本瓦は、それら洋風住宅の屋根にも葺かれ全国に広がったようです。
なお、大正時代には「洋瓦」も西洋建築とともに日本へ伝わってきました。
「スパニッシュ瓦」がそのひとつです。
洋瓦は和瓦よりも凹凸がハッキリしていて、高級感のある洋風建築にとても合っていました。
そしていよいよ昭和に入ります。
1955年に「真空土錬機」という画期的な機械が発明されました。
この機械を利用すると、粘土中に空気が含まれることがなくなり、理想的な瓦の大きさと厚さに切り揃えられた粘土板を作り出すことが可能となりました。
また、荒地干し(干して乾燥させる)という工程も省略できるようになり、時間も短縮されるようになりました。
今現在、屋根の工場で使用されている真空土錬機も、原理的にはほぼ同じものと言われています。
その後、瓦造りには欠かせない機械等が発明され、それらと自動プレス機とが連結された自動製瓦機が1966年に発動しました。
この機械化によって大量生産が始まり、それによってコストパフォーマンスも上がって、一般家屋での利用が一気に進んだのではと思われます。
◎ まとめ ◎
いかがでしたか?
駆け足ですが、屋根の歴史について解説していきました。
明治時代の西洋建築に和瓦が使われていたことは、今見ても大変モダンでお洒落な雰囲気がありますよね。
瓦屋根が普及するきっかけに、火事が関わっている事も驚きでしたね。
日本人の暮らしに欠かせなかった和瓦、最近は見かける事も少なくなってきましたが、日本家屋ならではの情緒が感じられます。
瓦を見かけたら、こちらの記事を思い出していただけたら嬉しいです。
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